2024年10月31日、駒場にて第3回EALAI研究セミナーが開催され、月脚達彦氏(総合文化研究科教授)から「大韓帝国を考えるー小中華意識の観点から」のテーマで発表があった。

1897年に高宗の皇帝即位とともに成立した大韓帝国は、1910年に日本に「併合」されることになる。今回のセミナーでは、日中露や欧米の干渉が強まる中で、なぜ、どのように大韓帝国は成立したのかについて、最近の研究成果を踏まえて新たな視点が提示された。

大韓帝国設立にあたって強調されたことは、朝鮮が、中華の正統な後継であるという点である。皇帝即位を求める上疏にも、「伏羲氏・黄帝以来五千年余り、正統として相伝してきた礼楽文物は実にここ(我邦)にあります。」とあり、朝鮮こそが中華の正統を継いでいるという「小中華意識」が、高宗の皇帝即位に反映していた。

そして高宗は、年号を改めた上で、清ではなく明の制に倣い、圜丘壇での皇帝即位儀礼を行った。もとより朝鮮は、明朝に日本の侵攻から守ってもらった経緯があり、義理を立て、明の皇帝である万暦帝や崇禎帝に対する大報壇祭祀を行ってきた。加えて、今回の皇帝即位儀礼においては、「地に堕ち」た明の「帝統」を、立て直そうとする意志が高宗に窺われた。

「大韓」の国号を冠した理由として、高宗の発言に「我国はもともと三韓の地であり」とあるように、三韓統一時に国の起源を見ていたことが考えられる。

大韓帝国は小中華帝国として成立したが、その後、高宗はヨーロッパ式の軍服の着用を行うなど、皇帝像の「文明化」が試みられた。これについては今後の課題とされた。

 

セミナーには多くの人が集まり、発表後には多くの質問があり、活発な議論がなされた。セミナーを通して、月脚氏は常に朝鮮の視点、朝鮮の歴史、及び高宗の思惑から大韓帝国成立を眺めていた。アナクロニズムやオリエンタリズムが批判される意味を再認識することができ、認識が一新される思いがした。

朝鮮にとって、明は以前より重要な存在であり、明に対する義理からなされた建国であったと言える一方で、一般に、大韓帝国成立は、宗属関係を続けてきた清朝からの「独立」であったと解されている。しかし、「清と我国は均しく東洋に処し、[欧洲で]徳・奥が羅馬から統を接いだのと異なりがありません。」(『秘書院日記』)という、高宗の「二元的皇帝」としての「独立宣言」を、清との「共闘宣言」と読み替えることはできないだろうか。高宗は、「[壬]辰年と[癸]巳年の役に至って神宗皇帝が[朝鮮の]国土を再造してくださったので、義は君臣[の関係]であっても、恩は実に父子[の関係]です。」として、秀吉の朝鮮侵攻を撃退した経緯に触れている。朝鮮への圧力を強める日本を念頭に置き、日本に敗れた清に対して奮起を促しているようにも読み取れないだろうか。だとすれば、三韓統一に因んだ「大韓」には、朝鮮と中国の統一・連合を含意していないだろうか。帝国設立に際して、高宗に提出された無数の上疏に、清朝に対する高宗の思いが表れているように思えた。大韓帝国と中国との関係性に、興味が尽きない。

 

高山将敬(EAAユース第3期生)