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2024年12月12日(木)、東京大学駒場キャンパス駒場国際教育研究棟(KIBER)314会議室にて、第4回EALAI研究セミナーが開催された。シリア語文学・文献学を専門とする高橋英海氏(総合文化研究科教授)から、「中国・中央アジアのシリア・キリスト教:近年の発見を中心に」というテーマで報告が行われた。司会は月脚達彦氏(同教授)が務めた。

キリスト教はアジア大陸の端で生まれた宗教である。日本ではラテン語世界のキリスト教(カトリックおよびプロテスタント諸教会)がよく知られているが、ギリシア語圏や北アフリカのキリスト教や、さらに東に伝播したキリスト教も重要である。

シリア語を典礼語とするキリスト教徒の集団(「ネストリウス派」とも呼ばれるが、近年ではこの呼称は避けられる)は現在のイラクに起源をもつ。彼らの信仰はササン朝ペルシア領内で発展し、現在のトゥルクメニスタンのメルヴなどから中央アジア地域を経て、陸路を通じ中国に、そして海路を経てインドにも伝わった。現在ではシリア語を使うキリスト教徒が世界で一番多いのはインドである。

東アジアに伝播したキリスト教は中国では「景教」という名で知られた。中国のキリスト教は635(貞観9)年の阿羅本の来唐にはじまり、781(建中2)年には景教碑(「大秦景教流行中国碑」)が建てられるほど隆盛したが、845年頃には外来宗教を対象にした会昌の廃仏により、マニ教、ゾロアスター教と並び景教は中国の中心部では壊滅的打撃を受けた。

一方中央アジアでは8世紀から13世紀にかけて、ソグド人に加え、チュルク諸部族の一部がキリスト教に改宗した。13世紀から14世紀にかけてのモンゴルの支配下の中国では、チュルク系(ウイグル、オングト等)のキリスト教徒が各地に在住していた。

唐代の景教に関する主な史料は下記の通りである。前述の「大秦景教流行中国碑」の脇面にはシリア文字が刻まれている。敦煌で出土した景教経典の多くは20世紀前半に日本に運ばれた後に長く所在不明となっていたが、近年杏雨書屋が公開した。21世紀初頭に洛陽で出土した景教経幢の上部では中央に十字架が刻まれ、左右に天使(天女)、蓮花が刻まれている。洛陽出土の経幢には康氏、安氏といったソグド系の人々が中国で名乗った姓がみえ、ソグド人のキリスト教コミュニティーの存在が示唆される。このほかにも西安で見つかった「米継芬墓誌」には米氏の記述が含まれ、洛陽竜門石窟の景教墓では石(氏)の字が刻まれているが、前者はマイムルグ、後者はタシケント出身のソグド人が名乗った姓である。唐代中国のキリスト教はペルシア人やソグド人の信仰する宗教であったといえよう。

マニ教はキリスト教の要素を取り入れながら成立し、一時期北アフリカ等に広まり、シルクロードを経て中国に伝播した。キリスト教の信仰が唐末には中国の中心部で途絶えたのに対し、マニ教(明教)は福建省の山岳地域等に入り込み生き延びた。近年、霞浦県で発見されたマニ教文書には、聖ゲオルギオスへの祈祷文(吉思呪)がある。唐末にキリスト教とマニ教がともに迫害された時代に、キリスト教徒の一部はマニ教徒の集団に吸収されたのだと考えられる。

モンゴル期・元代のシリア語を典礼語とするキリスト教(「也里可温教」)に関する資料としては、戦前に江上波夫が調査した内モンゴルのオロンスム等に存在するキリスト教墓(石棺)が古くから知られている。このほかにも、内モンゴルで金属製の十字架等が発見され、泉州では十字架とパスパ文字が刻まれた墓石等が見つかっている。現在のモンゴル西部のオラーントルゴイではシリア語と漢文を併記した碑文が見つかった。高橋氏が2014年にシリア語碑文を大阪大学の大澤孝氏から依頼されて確認した際に、漢文部分に「高唐(王)」という名があることに気づき、『元史』や「駙馬高唐忠獻王碑」で高唐王闊里吉思という名で言及され、フランシスコ会士モンテコルヴィーノのヨハネの記録にもその名が残されているオングト部族長ゲワルギスが、1298年に遠征中に捕虜となって殺される直前に残した碑文であることがわかった。

中央アジアおよび新疆でも、近年は研究の進展や新文書の発見が顕著である。新疆のトルファン出土のシリア文字文書は、かつてル・コック隊により1,000点ほどの断片が収集されたが、近年になってようやく整理と目録の刊行が始まった。主な文書は教会の典礼書であるが、アリストテレス『範疇論(カテゴリー論)』のシリア語訳も確認されている。日本でも大谷探検隊が将来したトルファン出土シリア語断片3点が龍谷大学にて所蔵されている。この文書は護符や占いが教会の禁止にもかかわらず実際の人々の信仰生活の中に流布していたことを示す。トルファンの乾燥した気候がこれらの文書を千年間保存してくれたといえる。

新疆ウイグル自治区奇台県唐朝墩の遺跡では2021年に典型的なシリア系教会の跡が発見されたが、その内部には騎馬兵士(聖ゲオルギオス)の壁画やシリア語で「罪」と読める文字が確認できる。トルファン市葡萄溝西旁のキリスト教修道院址でも、2021年に始まった中山大学等による発掘調査でシリア語文書を含む文書約500点や絵画の断片が発見された。この修道院の至近に仏教遺跡が存在することは、一帯におけるキリスト教と仏教の共存を示唆する。

中国と中央アジアの双方において、14世紀にはキリスト教は滅亡した。オングト部出身の詩人金哈剌(金元素)の『南遊寓興詩集』に収められた「寄大興明寺元明列班。寺門常鎖碧苔深、千載燈傳自茀林、明月在天雲在水、世人誰識老師心」という一句には元の滅亡を目前にした泉州のキリスト教寺院の情景が描かれている。中央アジアに残されているキリスト教徒の墓の大半は1330年頃に建てられたものである。ペストの流行とティムールの破壊によって中央アジアからもキリスト教が消えたのだと推定される。

高橋氏の発表後には、日本における景教研究史の断絶について、日本におけるシリア語文書の収蔵機関についてなど、様々な質問が出された。わずか1時間の間に、西アジアから中央アジアを経て中国に至る広域の文化交流が、出土文書の拓本、近年発見された文書の断片や関連遺跡の写真、さらにそれらを生んだ地域の景観写真など、豊富な視覚資料を用いて解説され、多くの参加者がこの研究分野に魅了されていた。

澁谷由紀(EALAI特任助教)